ALL DAY!!

本当と嘘のあいだで、どこからか聞こえた音を書き留める。

-Christian Boltanski-[Lifetime]

まず最初に書いておきたいのは、私はアートを見るにあたって作者の生い立ちを知らないまま展覧会や美術館へ足を運んでいる、ということ。
真っ白の情報の中で。あるいはこういうタイプの作家とか「好き」とか「苦手」という情報のみで足を運ぶ。
作品と対面しているうちに「その作者」はなんとなく受け手に発信してくるから、そこで「ああ、こういう生まれの。人生のひとなのか。」と思うのだ。
ボルタンスキーの場合、それは人種として体に流れる血だったり生と死との向き合い方だったり宗教観だったりする。

 

-Christian Boltanski-[Lifetime]

 

会場内には心臓音、クジラの叫び、無数の鈴のささやき。この3つの音が鳴り響いていた。
作品の位置によってそれは強くなったり弱くなったりするが、どこにいてもこの3つは聞こえる。
亡霊たちの声なのか、それとも生き抜くこの一瞬の音なのか?

 

最初の部屋に入ると「咳をする男」という映像作品と共に、隣室の心臓音を聞くことになる。
咳をする男はミイラのようでただただ血を吐き続ける、その隣では誰かが生きている音がするのだ。
そしてこの企画展が「生と死」が隣り合った空間なのだと突きつけられる。なんとも重いオープニングだろう、しかしそれでこそ心地が良いのだ。

 

遠くから聞こえるクジラの叫びの正体は「ミステリオス
一方的にクジラに話しかけているようで、実は本当はクジラの声なのかもしれない。切なさ。

無数の鈴のささやきは「アニミタス」(豊島にあるささやきの森参照)
ただしささやきの森とは違い、アニミタスは自然消滅するものである。
アニミタスの映像は2つあって、チリの砂漠とカナダ北部の白い世界。砂漠と雪原どちらも死をイメージするのに、なぜか砂漠の方が息遣いの強さを感じるのはなぜだろう。

2つ並ぶアニミタスの真ん中を進むと黒の山「ぼた山」とその周りを彷徨う「発言する」人形が在る。
宮沢賢治の物語に出て来そうな人形はランプの頭にコート姿で「なにか」を語りかけてくる。
ああ、亡霊だ。この黒いぼた山に引きずり込まれる前に逃げなければ…そう思うのに、なぜか心地がよく居続けてしまう。

 

会場内はとにかく顔写真をつかった作品が多い。その作品の中でも祭壇のような作品はまるで死者を呼び覚ます儀式のようだ。
そしてそこに響く3つの音がその死者たちの声にも聞こえてくる。
ーーー「心臓音」の部屋を出ると「最後の時」という作品がある。
これはボルタンスキーが生きている時間をリアルタイムで「秒」で表しているもので、彼が死ぬ時これは時を止めることになる。
この最後の時を迎えたその時、ボルタンスキーもまた、呼び覚ます儀式の向こうの人になるのだろうか。
もしくはぼた山の周りを彷徨うのだろうか。

 

一つ、新しい作品がある。
この展覧会のために制作された「黒いモニュメント、来世」である。
捉え方は様々だと思うが、私にはビルに見えた。
人々が生き抜く街。その隣にある小さな電球の光や響く心臓音、生きている作品だ。
一方で「来世」の文字に赤く照らされた黒のビル群は、「死」を迎えたようにも見えた。まるでゴジラに破壊された様な。
ああ、でもゴジラだったら「再生」も意味するのかもしれない…。そういう思考をぐるぐるとさせながらこの部屋には10分以上いただろうか。


フロアを一周して、私は最初の「咳をする男」の映像がもう一度見たくなり戻る。
その映像をみるとまた一気に「死」の世界へと引き戻されて行く気がした。そしてまた彷徨う様に出口へ向かう間に少しずつ「生」を感じるのである。
しかし2度目のその道は少し切なさを含んでいる様に感じた。ブランコの様に生と死の間を揺れる。
・・・その間も「最後の時」はカウントアップを止めない、止まることはない。

 

2019.2.14 国立国際美術館にて